アーティスト、芸術家
「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」視聴メモ。今週は俳優のオダギリジョーとデザイナー・舘鼻則孝氏の対談です。

「例えば、それをコピーしたという意識はどこまでありますか?」と質問をした瞬間、お、オダギリジョーよく聞いた!それそれ!と乗り出して聞かずにはいられないトークが繰り広げられた今回。レディー・ガガの靴を作り一躍有名になった舘鼻氏と共に、アーティスト、表現者としてのルーツや考え方をぶつけ合いその核心に迫ります。

モノを創る、何かを表現する

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「オダギリジョー×舘鼻則孝」 – NHK

おいらんの高げたからインスピレーションを得たヒールレスシューズなど、伝統工芸と日本の現代的美意識を融合させたアバンギャルドな作品で注目される舘鼻。30歳の若きアーティストの発想の秘密にオダギリが迫る。さらに2人は美術館でオダギリが演じた画家・藤田嗣治の作品を鑑賞。オダギリの独特の存在感の秘密、役への入り方を探るうち、技術と感性のバランスの取り方など、「表現」にともなうそれぞれの葛藤が浮き彫りになる

視聴メモ、まとめ

【オダギリジョー → 舘鼻則孝】
ヒールレスシューズについて
【参考】
志のチカラ〜列島から飛び出した個性 デザイナー 舘鼻 則孝|Global Manager

一見歩きにくそうだが、履いてみると歩きやすい
・使い心地は考えて作っているのか?
→使い心地は考えて作っている、工芸品は日本の美術の原点、用途のある芸術品である

・ファッション=用途のある芸術品、工芸品とも言える
→そうなるとちゃんと使えなくてはいけない、それと美しさを両立させる

世界で活躍するファッションデザイナーになりたいと思った時に、はじめに留学したいと思った
・自分の強みとなる要素はなんなのか
→自分の国にもファッションはある
自分の国の文化も知らないのに、外国に行ってその文化を勉強して、外国人になにを見せるのかと

卒業制作にて
・花魁の高下駄から発想したヒールレスシューズ
→手応えはあったものの、大学での評価はイマイチ
意を決して、世界100人以上のファッション関係者にメールで作品の写真を送る
→そこでレディー・ガガのために作ってくれとの依頼が舞い込んだ→舘鼻氏世界へ

・日本の古い文化と、西洋の日本の文化をミクスチャーしているのはなぜか?
→そこがとても重要、現代の西洋化された日本も、日本だと認めなければいけない
→自分の作品が認められたのも、今の日本を認められたから
→そうなるべくしてなった結果でしかない、それをしっかり見つめるそれが重要

ファッションは20、30年で流行は繰り返すと言われている
花魁から発想を得たシューズも何百年かの周期でやってきたものともとれる
・例えば、それをコピーしたという意識はどこまであるか?
→自分としてはかなりコピーしたと感じている
→ジャンルとしてパッケージした感じ
→そのデザインをした理由・要素を持っていただけ(日本人だったこと、和装や花魁の勉強をしていたことなど)
→そういった要素が合わさったタイミングだったというだけ

・となると、オリジナリティーっていうのはどこにある?
その人自身が自分を認識していること(アイデンティティーなど)、他人との違いを認識していれば必然としてその人が生み出すものはオリジナルになっているはず

・コピーのコピーのコピーはもしかしたらオリジナルかもしれない理由
→それを作り出した人が、要素をチョイスしている、その選び方に絶対アイデンティティーが出ているはず
→だからそれがオリジナルになりうる
→その人しか結果的にその形にならなかったということを否定出来ない
その人がそれを表現して(その時代に)発信した理由はなんなのか、そこにオリジナルがある

【舘鼻則孝 → オダギリジョー】
・役作りに関して、役に入りやすいのは自分に似ているキャラか、似てないキャラか?
→基本は自分と似ていない役の方が圧倒的に多い
→その中で、この部分は理解できるという感覚がありそこから(イメージを)広げていく

役作りはただのモノマネになると、オリジナルを超えられない
→それをしてしまうと俳優がやる意味も、映画をつくる意味すら無くなってしまうかもしれない
→その役らしさになるのではなく、オダギリジョーらしさが期待されている
→自分を楽器とするとどんな音がでるか、どういう音楽が作りたくなるか試されているような気がする

・技術と感性のバランスはどうしている?
→技術が増えたことでなくなった感性もあるのでは
→若い時はもっと敏感だった気がする
技術とか知識とか色々着いてしまった自分が、感性だけで何かをなそうとした自分に追いつけないような気がする

どんな役でも技術があれば演じられる?
基本的に技術だけでも役は演じられる、でもそこに真実、魅力がない
→技術で演じられても魅力がないのではないか
→観やすいものはできる、多くの人間が共感できる常識的な演技は可能
→それがオダギリ自身1番嫌い、つまらない

・(感性だけでやっていた)昔の作品を超えられる気がしない
→今演じたとしても全く別のものになってしまう

葛藤や矛盾があるからこそ本当の表現者
・(今回のインタビューで)辛さ、どうにもできない気持ちが(アーティストとして)共有できた

まとめ

芸術家やアーティストと聞くと、どうしてもその才能や感性で作品を生み出していると考えがちでしたが、そこに至るまでに、確かなバックボーンや思想があることを再確認できました。

東京五輪で話題となったエンブレムのデザインも、見た目は似ているがその構図や色に加え、なぜそのように表現しようと思ったか、に着目すると、また違った見方もできるのかなと。(他の丸パクリ作品が消える訳ではありませんが、、)

また作品のオリジナリティーはどこに出るのかという問いに対し、「その人自身が自分を認識していること、他人との違いを認識していれば必然としてその人が生み出すものはオリジナルになっているはず」という考え方は、コンテンツ作りにも十分通じるものだと感じます。

これだけモノが溢れた社会で、全くゼロからオリジナルを生み出すというのはとんでもなく難しいことです。もちろん、そこに挑戦するのはよいですが、リソースが集まらない限り限界がある。

重要なのは、すでにあるモノ・情報を活用するといった際、なぜ自分がそれを用いて表現しようとしたのか、という背景を己の哲学に従って表明できるかどうかにあると思います。
そして、その人の感性、思考に共感できた人が初めて支持者となり、徐々に周りに受け入れられていくのかなと。

年齢を重ねて、変にまとまってしまう前に、不器用でも自分の感性を磨いて自分だけの意見・考え方をどんどん恐れず発信していきたいと思います。