華道について

先日家にいた際、無作為に転がっていた剣山に足を貫かれたため、今回は華道について学んでみます。
姉が華道をかじっていたせいで、思わぬ凶器とのセッションになりましたが、理由はどうあれ華道に興味を持てたということで良しとします。

まずは、華道に対してよくある勘違いからのスタートです。

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華道と生け花の違いは?

華道といってみたものの、よくよく考えるとつまり花をいけることかなぁと。ただ、花をいけるとなるとよく聞く「生け花(いけばな)」との違いも気になる所。

結論としては同じもの

実際のところ、華道も生け花も呼び方は違えど一緒のものであるとのことです。
日本の伝統文化である茶道を茶の湯、柔道や剣道を柔術、剣術と呼ぶように、「道」として捉える(求道的な意味合いを含める)際に、華道という言い方をするそうです。

よくよく考えてみると、「道」には過程・プロセスという意味があるなぁと。その道や過程を追い求める人達(師範や家元)にとっては「華道」、そうした文化を学び自己の糧にする人達(弟子)は「生け花」というニュアンスで一旦整理しておこうと思います。
師と弟子にそんな温度差あっていいの、とツッコミたくなりますが、そこは目を瞑っておきます。

華道に宿る精神、心

華道サンプル画像
華道に触れたからには知っておきたい、花をいける精神や心について理解しておきましょう。

花をいける、それは四季折々の豊かな自然に恵まれた日本だからこそ成し得た芸術であるといえます。
古くから大木を神の依代(よりしろ)としたり、仏前に花を供えたり、花挿し(かざし)としてその美しさを愛でたりと、日本人は草木花と深く結びついてきました。
そんな美しくも尊い草木花を、長く保存したい、より美しくみせたいと、当時の人々があらゆる工夫をはじめたことがいけばなの源流となります。

池坊が託したいけばなの精神

そんな草木花への思いや考え方を、「いけばな」として形にしたのが池坊(いけのぼう)という京都六角堂にいた僧侶でした。

池坊では草木の命が作り出す姿を美しさの根源とし、そこには「和」があると考えます。つまり、草木の命が日々太陽や雨や風などに出会い、新たな姿へ変化することが「和」なのです。
虫食い葉・先枯れの葉・枯枝までも、みずみずしい若葉や色鮮やかな花と同じ草木の命の姿ととらえ、美を見出すことが池坊の花をいける心であり、理念です。

出典:いけるこころとは?|いけばなの根源 華道家元池坊

草木花に対し、人と同じ命を感じ、またその命があるからこそ生まれる生の美しさとはかなさ、尊さを表現する。
華道、いけばながこれだけ伝統文化として長い間息づき残ってきた理由には、こうした神秘的でありながらも世の理を映しだした表現技法だからなのだなぁと実感。

そもそもになりますがこうした知識が無ければ、その奥深さや精神を感じ取ることは中々難しいのかなと。もちろんいけばなを観て、季節や草花の尊さ・生命力を感じ、その情緒に触れられる方はいると思います。ただ、これまで無関心だった人にとって、こうした世界観を知ることはなかなか新鮮なのではないでしょうか。

直接いけばなを嗜む機会は無くとも、身近な自然に対する見方は変わってきそうです。草木花にとっての生死が華道で表現されるように、人にとっての生死は人生という舞台で表現される。

生と死、生物にとっては避けられないこの定めを潜在化で共有しているからこそ、人はそこに感情移入し感化されるのかなとも。癒やしや気付き、人工的なモノと対峙した際には得られない独特な感覚・感情を大切にしたいと思います。


・credit: [ まこと ] via FindCC
・”Ikebana enshu-way” by Avensisblue投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.