茶道の精神に付随して、よくセットで語られる「侘び寂び」。
前回茶道の記事を書いた際も、調べていく中で侘び寂びに触れる機会が多々ありました。ちゃんと調べておきたいと思いながら、なんだかんだズルズルきてしまったので、ここらで一旦まとめておこうと思います。
スポンサードリンク
「侘び」と「寂び」
まず「侘び」「寂び」の意味から確認していきます。
– 侘び
「侘ぶ」という動詞の名詞形
意味:気落ちする、悲観する、嘆く、寂しく思う、落ちぶれる
– 寂び
「さぶ」という動詞の名詞形
意味:(光や色が)弱くなる、色あせる、古くなる
どちらの言葉も基本的にネガティブな意味を持っています。どこか寂しさや切なさを醸している節があり、正直地味な印象の単語だなぁと。
どうしてここから嗜めるレベルの世界観を見出すことができたのか。そこにはこの考え方が生まれた時代背景や、茶道における精神性が関係しています。
質素であることから本質を見出す「侘び」
「ニワカ抹茶好きと悟った瞬間学びたい、『茶道』超入門」でも紹介したように、日本で茶会が普及した当時は酒だ宴だと華美なもてなしが主流でした。
ただ、茶を出し客をもてなす場で酒など有り得ないでしょ!もてなすってそうじゃないよね?と、村田珠光(むらたじゅこう)という人物がその在り方を説き「侘び茶」というスタイル・考え方の原型が誕生します。
茶会とは、亭主と客の精神交流を楽しむ場であるとし、それまでの凝った装飾や高価な茶道具を全て廃しました。徹底的に質素であることがよしとされ、その中で自身の精神性を高め、シンプルさの中にある本質や美を見出そうとしたのです。
使われる道具は地味で味気無く、作法も型に則ったもので特異な動きは一つもない。だからこそ外見的な部分に注目するのでなく、その何も無いシンプルな場で生まれる自身の内面・感情に目を向けることになるのです。
刺激があるからこそ何かを感じるのではないか、という考え方に対し、侘びの世界では『何も無い質素である』という刺激を受け、自身の感情を豊かにしていきます。
色あせていくものから感じ取る「寂び」
こうしてみると、「侘び」という言葉は茶道の精神に用いられると、辞書にある意味と随分異なってくることがわかります。
ただ悲観し落胆するという意味から、質素を受け入れ楽しむ・情緒を感じ取るといったある種反対の意味に転じているのは面白いところです。
また同様に、「寂び」という言葉も「侘び」との関係性で語られる際、その意味合いを微妙に変えています。
元は、古く色あせてしまったもの・事というネガティブな意味でしたが、「侘び」と用いられることで「見た目が衰える、変化していく過程で生じる多彩で独特な美しさ」を意味するようになります。
春から夏にかけて桜が散っていく様、寒空の下木々に残る1枚のもみじ。
寂びとはこうした自然の中にある一瞬(刹那)の美しさを意味し、満開のもとでは決してみられない儚さ・寂しさを美として捉えています。
「侘び」と「寂び」。双方とも似たような意味だと思われがちですが、こうして調べていくと寂びを感じ楽しむ心、それが侘びということがわかります。同じような意味でなくこれら2つの言葉にはしっかりとした関係性があることを覚えておきましょう。
まとめ
こうした質素で不完全な物事に美を感じる感性・感覚は、世界でも類を見ません。こうした日本独自の価値観は、四季という自然のサイクルや万物に八百万の神が宿るとした宗教観が影響しているのではと感じました。
1年を通して、自然の移り変わり・生と死のサイクルを身近に感じ、そこに宿る神様や命に敬意を払う。
また死の直前、最後の灯火を見て美しいと感じるのは、何か自身の死を慰め、死に対する恐怖を和らげているような気もします。何か死生観に通じる部分もあるのかと勝手に想像してみますが、そこを掘るとまた長くなりそうなのでここでは置いておきますが。
この侘び寂びの世界に触れ、自然のものとして受け入れられるのも日本人ならでは。今はまだわからなくとも、質素やシンプルの中に見える本質や、自然界の儚さ・尊さを美しい・綺麗だと思える感性を養ってみると、また新たな景色が広がっているかもしれません。