舞台上での暗殺
歴史を活字ではなく、写真から学ぶ。
1942年にピュリッツァー賞の報道写真部門は創設され、これまで多くの受賞作品がその年を象徴するシーンを切り取ってきました。

当時の臨場感やリアルを伝える手段として、文字よりも克明にその瞬間を映し出す写真には、見るものを圧倒し説明を必要としないものも多く存在します。
今回はそんなピュリッツァー賞に目を向け、その受賞作品と共に歴史の重みについて考えてみたいと思います。

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「卓越したもの」だけが選ばれる栄誉

トロフィー
ピュリッツァー賞は、米国のジャーナリズムにおいて最も権威ある賞とされ、ジャーナリズム・文学・音楽に大別された21の分野を対象としています。
1917年、当時新聞社(ニューヨークワールド紙)社長のジョゼフ・ピュリッツァーの死をうけ、「ジャーナリストの質の向上」という遺志を汲む形で賞が設立されました。
運営はコロンビア大学におかれた委員会が担当し、毎年4月に受賞作が発表されています。

審査対象になるための条件は以下2点。
・アメリカ国内の日刊紙に掲載されたものであること
・賞が発表される前年に撮影されたものであること

以上を満たせば、決してプロのカメラマンでなくともピュリッツァー賞受賞の資格を得ることができます。
実際にこれまでも一般人がたまたま撮影した写真や、アマチュアカメラマンのスナップ写真が受賞した例もあり、偶然であっても決定的・歴史的瞬間をとらえることが、その栄誉を掴む絶対条件となるのです。

ピュリッツァー賞受賞条件はただ1つ、「卓越した(distinguished)」ものであること。
そんなシンプルで最も難しい要求に応えるため、カメラマンの多くは常に危険と隣り合わせの状況で、シャッターチャンスを待ち構えているのです。

過去の受賞作品紹介

ここからは1942年以来、報道写真部門でピュリッツァー賞に輝いてきた作品の一部を紹介していきます。

中にはこれまで学校の授業やメディアを通して、見たことのある写真もあるかもしれません。また、今回取り上げる作品には、あえて過激で暴力的なシーンを含むものも一部取り上げてみました。

できるだけショッキングの少ない作品を、とも思いましたが、歴史的瞬間にはどうしても対立や争いを避けられない場面が多く存在します。人間の美しさや尊さより、流血や悲劇の中で語られる事の方が多いという、歴史の残酷で非情な一面も感じ取ってもらえればと思います。

人間はどれほど冷酷になれるのか
死体を前になぜ笑っていられるのか
1つの思想がどこまで人を突き動かすのか
奴隷になるとはどういうことか
処刑される側とする側の違いとは何か
死ぬ瞬間に人はどんな表情をするのか
貧しさとは何か
自然の前での人間の小ささ、そこで初めて気付く人との繋がりがどれほど尊いか
小さな子供の笑顔がどれだけ世界に勇気を与えるか

日本にいては決して目にすることのない瞬間を、1枚1枚の写真を通して是非味わってみてください。
※()内は撮影年ではなく、その翌年の受賞年です

硫黄島の星条旗(1945年)

硫黄島の星条旗
太平洋戦争末期、硫黄島で行われた戦いにて勝利した米軍の兵士たちが星条旗を掲げる瞬間の写真です。

硫黄島での戦いは、小説や映画にもなっており多くの方が知っている出来事だと思います。日本、米国ともに多くの命が失われ、最終的に星条旗が掲げられたこの地にも、瓦礫に混じり当然何万人もの死体が転がっています。

戦争や争いが何の上に成り立っているのか考えさせられる一枚です。

チャイナタウンの男の子と警察官(1958年)

チャイナタウンの男の子と警察官
チャイナタウンに建てられた新しいビルの祝福パレード中に撮られた作品。

警察官の優しい顔とそれを覗きこむ男の子が印象的な1枚で、小さい子供がパレードに近付くのは危ないよと諭しているシーンです。
パレード自体が作品になるのでなく、こうした何気ない一瞬が受賞するのもピュリッツァー賞の特徴です。

舞台上での暗殺(1961年)

舞台上での暗殺
トップ画にも貼ったこちらの写真は、日米安全保障条約をめぐる討論会のあった日比谷公会堂での一幕です。

当時日米安保に対し、右翼・左翼双方の学生グループが大規模なデモを展開し、都市のいたるところでデモを繰り広げていました。
そんな中、主要政党の指導者並びに関係者の集まった演説討論会にて、当時社会党書記長だった浅沼稲次郎の演説中、舞台袖から突如現れた若者が日本刀を手に、浅沼氏の腹部と胸部めがけて突き刺したのです。

浅沼氏はその後病院に運ばれる途中で死亡。この学生服を着た若者は、狂信的な右翼の一員でした。

ちなみにこの写真を撮った長尾靖氏(毎日新聞社)は、アメリカ人以外で初めてピュリッツァー賞写真部門を受賞した人となり、日本人受賞者第1号ともなっています。

サイゴンでの処刑(1969年)

サイゴンでの処刑
南ベトナムの警察庁長官だったグエン・ゴク・ロアン中佐が、捕虜の男を躊躇なく撃ち殺す瞬間を捉えたものです。

時は南ベトナム解放民族戦線による大攻勢が始まった、1968年ベトナムの旧正月。
反政府・反帝国主義組織の解放戦線は、1950年代後半からの政権腐敗、貧富格差の問題や仏教徒に対する弾圧などに反発する形で増大しました。

ロアン中佐もその1人として参加した中での一幕で、射殺した後も表情を変えず「やつらは私の仲間を大勢殺した」という言葉を残し去っていきます。

ただ、ここで勘違いしてはいけないのが、ロアン中佐が根っからの悪人ではないという点です。この写真を撮ったカメラマンの話では、同じベトナム人の仲間からは常に敬愛されていたし、ロアン自身も自分を殺して任務に当っていた犠牲者でもあると言っています。

戦争や争いが人をどう変え、何故そうせざるを得なくしてしまうのかを考えさせられる写真です。

市庁舎前広場の旗(1977年)

市庁舎前広場の旗
事件の発端は市庁舎広場での抗議デモでした。
南ボストンの進める強制バス通学の計画に対し、反対活動をしていた学生たちが通りかかった何も関係のない黒人弁護士に襲いかかっている光景です。

当時まだ人種差別や偏見の残っていたアメリカで、こうした理不尽な暴力が振るわれていたことを鮮明に捉えた作品。
アメリカの愛国心の象徴である星条旗のついた旗竿が、人種的憎悪に基づく不当な暴力の武器に使われた瞬間が皮肉にも収められています。

ホメイニからのメッセージ(1980年)

ホメイニにからのメッセージ(1980年)
イラン革命の年、1979年に最高指導者アヤトラ・ホメイニは、自身をイスラム教シーア派の神の代理として君臨しました。

神の啓示によって、西洋的な影響を排除する一環としてクルド人の虐殺を執行したのがこちらの写真です。
クルド人自身、決して西洋文化を賛美していたわけではありませんが、ホメイニ自体を救世主と思っておらず、ただ自分たちの独立を目指して活動していただけでした。

ただ、それがホメイニにとっては受け入れがたいものであり、一方的に軍隊を派遣し民族浄化の名の下に虐殺を行ったのです。
斬首、銃殺その他の処刑が、クルド人居住地の各地で行われました。

南アフリカの抗争(1991年)

南アフリカの抗争(1991年)
アパルトヘイトからの脱却に向けて、新たな政体に転換しようとする南アフリカ激動の時代の写真です。

ネルソン・マンデラ氏率いる政党として、合法化されたばかりのアフリカ民族会議と、ズールー民族の支持を受けた政党インカタが、血で血を洗う覇権争いを繰り広げ、特に都市部の黒人地区では多数の死者を出す血みどろの抗争が行われていました。

この写真で火を付けられている男性は、ズール民族の政党インカタのスパイと見なされ、本当にそうかもわからないまま4、5人の男から暴行を受け殺されました。
火を付けられる前に、拳ほどある石を何度も投げられ、刃物で刺され、ナイフを頭に突き刺すまでして惨殺されています。
やり方は違えどそうした光景は、当時全く珍しいものではなく、いたるところで繰り広げられていました。

ハゲワシと少女(1994年)

ハゲワシと少女(1994年)
アフリカ最大の国スーダンでは、1956年イギリスから独立を果たして以来、途絶えることなく内戦が続いていました。

その影響で、各地で食糧不足が蔓延し、旱魃も起きたことからスーダンは飢饉の瀬戸際に立たされていたのです。
この写真は、僅かな食料を残す配給所が設置された村の近くで撮られたもので、弱々しく泣いている少女の背後に、死肉を嗅ぎとったハゲワシが、その時を待っている様子が映し出されています。

弱肉強食という自然界の掟が、こうもリアルに人間界にも振りかかるショッキングな写真として、世界中で有名になりました。

コソボ難民(2000年)

コソボ難民(2000年)
戦争と大量虐殺から逃れてきた何万人もの難民が、コソボの国境を越え、マケドニアとアルバニアへ流れ込む。

国境を越えた難民キャンプでは、食糧が不足し、避難所の数も足りてはいませんでしたが、難民たちは大虐殺が行われているコソボから逃れることができた安堵感と、家族に再会出来た喜びを噛みしめていました。

そんな中、フェンスを挟んで有刺鉄線越しに幼い子供を何度も渡しあう家族に遭遇。溢れる喜びを抑えきれない様子をそのシャッターに収めたものです。

命の手(2010年)

命の手(2010年)
自家用ボートに乗り、水上クルージングをしていた夫妻に起こった悲劇を、その場に居合わせた建設作業員が救出するという奇跡の瞬間です。

消防署の救助隊が駆けつけながらも、溺れている夫婦を上手く助ける事ができない中、間に合わせの装備で建設用クレーンにぶら下がりなんとか女性を助け出しました。
残念ながら旦那さんの方は救助できず、帰らぬ人となってしまいましたが、この英雄的行為は瞬く間に発信され世界中の新聞の一面を飾りました。

まとめ

劇的な場面を映し出すこれらの写真は、各カメラマンの猛烈な勤勉さと、並外れた周到さと、たぐいまれな犠牲的行為の上に成り立つものでもあります。

一般人では入り込めない危険地帯に乗り込み、自分たちでは知り得ない世界中の出来事を1枚の写真で鮮明に伝えてくれる。
昨今そのやり方や、他を顧みない報道姿勢が問われることも多くなってきましたが、それでもこうした世を反映する出来事をいつでも知れるのは、そうした人達がいることを忘れてはいけないと感じました。

また、紹介した以外のピュリッツァー賞の受賞作品は、以下の写真集からも見ることができます。
この世界のリアルを知り、人間というものが極限の環境下でどのような振る舞いをするのか。20世紀中盤から、人類はどう歩んできたのか、そんなことを知るための一助になると思います。


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Assassination of Asanuma via photopin (license)
Human Torch via photopin (license)
Sudane Famine via photopin (license)
After the Storm via photopin (license)
The Soiling of Old Glory via photopin (license)
Saigon Execution via photopin (license)
Justice and Cleansing in Iran via photopin (license)
River Rescue in Downtown Des Moines via photopin (license)
Fleeing Kosovo via photopin (license)
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