前記事で、新年のご挨拶と今後の決意について書きましたが、そこでふと思ったことが。
教育や Edtech の情報発信、サービス構築を目指していく中で、そういえば10年後やそれ以降の教育って一体どうなっていくのかと。
ただの”変化”という意味ではなく、要は、
「教育はこの先も人間にとって必要なものであり続けるかどうか」
という部分です。
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テクノロジーが変えていく”教育”
基本的に普段は、
「教育はいつまでもあるもの」
「教える内容は変わっても教育自体はなくならない」
という前提のもと話をしていますが、それって本当にそうなのかと。
まず、近年テクノロジーの発展や社会構造の変化を背景に、世界は大きくその姿・形を変えようとしています。
今後数年数十年にわたって起きる変化は、過去の産業革命やそれ以前の社会変革と同等もしくはそれ以上のインパクトをもって到来する。
急激な変化ではないにしろ、一度動き出したそのうねりは、これまで経験したことのない衝撃を私たちに与えるはずです。
・IoT、ビッグデータ
・ブロックチェーン
・ロボティクス
・AR、VR、MR
・3Dプリンター
・ウェアラブルデバイス
・言語翻訳
・エモーショナルセンサー
・医療(脳科学)
・マイクロチップインプラント、ナノマシン
こうしたテクノロジーやプロダクトは、今まさに世界中で研究開発が進む分野であり、これらが基礎となったイノベーション、ブレイクスルーは、すでに数多く生まれています。
そんな中、教育はどうなっていくのか。
・進学、キャリアの最適化を図るに欠かせない、学校や企業間のセキュアな個人情報共有はブロックチェーン
・ロボットやウェアラブルデバイス、3Dプリンター、AR・VR・MR による学習体験の拡大や多様化
・言語翻訳技術による外国語授業の変容(言語取得でなく、他国文化理解のための授業へ)
・エモーショナルセンサーから、授業や他者とのコミュニケーションに関するフィードバックの獲得
・脳科学研究の発展が、脳機能の活性化を実現
・マイクロチップインプラントによる、知識、データの脳内インストール
パッと思いつくだけでも、これだけのことが起こり得るというまさに革命前夜。
教育がテクノロジーによって変わっていくことで、その可能性も限りなく広がっていくことがわかります
テクノロジーが変えていく”人と社会”
では、その教育を受ける側の人や社会は、これまでと変わらずにあり続けるのか。
答えはもちろん否です。
アーサー C.クラークが”PROFILES OF THE FUTURE”という本の中で綴った一節に、以下のようなフレーズがあります。
(※「充分に発達した技術は魔法と区別できない」という有名な言葉もこの本が出典です)
“The old idea that Man invented tools is misleading; it would be more accurate to say that tools invented Man.”
– 人類が道具を発明したのではなく、道具が人類を発明したのだ。
人類はテクノロジーを発達させていく中で、自身もまたテクノロジーによって進化・発展させられてきたのだ、というもの。
なかなかパンチのきいた表現で、たしかにそうとも云えるなと。
実際、人の手によって開発されたAIが、将来的な雇用削減を推し進めるとし、ベーシックインカム(BI)に関する社会的な取り組みが議論され始めました。
欧州、特にフィンランドでは、2年間限定でBIを試験的にスタートさせていますし、実現にはいたらなかったものの周辺国でも国民投票が行われています。
こうした社会に普及したテクノロジーによって、その環境に応じ”自発的”に適応してきたとされる人間も、実はテクノロジーによって変化せざるを得ない存在であったことがわかります。
AIやロボットの発明により、人間という存在やその役割が相対化され、その中で再定義が進んでいく時代。
究極的に人は、知識やデータを外部チップや脳内へのインプラントで実装することで、基礎的な学習をせずとも社会的に生きていける生物として進化する(再定義できる)時代がやってくるかもしれません。
物事の名称や漢字といった基礎的な知識、そして社会の仕組みからものの解き方まで、基本的なことはすべて頭に入っている。
こうなると、当然学校に行き授業を受ける必要もなくなりますし、社会性や他者との関係構築などは遊びながら、もしくは働きながら養っていけばいいことになります。
これまで種として生き延びるために必要であった、”学ぶ”ことをしなくなる(機会が減っていく)ことで、人間は一体どう進化していくのか。
本筋から外れるため深掘りはしませんが、個人的な興味は尽きないため、折に触れてフォーカスしていければと思います。
教育のない社会=最低限の”知識”が保証された社会
ここまでくると、ついに教え育てるといった教育の意義も曖昧となり、生きるために必要以上の知識は、研究という形でしたい人間だけが続けていくことになるのではとも感じます。
捉え方によっては、教育を必要としない社会は、最低限の知識が誰にでも保証される社会だとも言えそうです。
なんとなくですが、最低限度の収入が保証されているベーシックインカムのようで、いわば2つめのBI、”ベーシックインテリジェンス”と呼べるかもしれません。
ただ、正直そこまでいくにはまだまだ時間はかかりそうですし、むこう30年で目途が立てばいいくらいではないかと。それでも早いかもですが。
とりあえず、ベーシックインテリジェンスの時代がきたら、教育コンテンツをエンタメ化して、エデュテイメントとして展開しながら、基礎的な知識以上を知りたがるような知識欲を刺激するコンテンツを扱えるようになっていられればいいなと思っています。
なんだかんだエンタメコンテンツは強いですし、感情を失わない以上、人はみんなが楽しむものに惹きつけられると思うので。
「教育はこの先も人間にとって必要なものであり続けるかどうか」
という問いに対しては、現状必ずしも肯定しきれない要素がすでに盛り沢山。
ということで、遅かれ早かれ到来するであろう未知の世界に備え、たまには妄想半分マジメ半分で展望しながら、今からできることに取り組んでいければと思います。